42年災害で被災した麓の集落

 「布引ハーブ園の災害の歴史1」でお話ししたように42年災害では世継山の斜面が幅40m,長さ140mにわたって崩壊しふもとの集落が大きな被害を受けました.

神戸新聞NEXT 2017年7月16日

 その麓の集落では21人が犠牲になりました.当時のゴルフコースを昭和36年の航空写真に重ねたものが下図です.点線は大崩壊が起こった斜面です.この山深い場所にある市ケ原の集落はどのようにしてできたのでしょうか?

今昔マップというサイトでは昔の地図と現在の地図を並べて比較できます.明治43年では民家はあるようですが,集落と言えるほどではありません.

ところが大正12年にはかなりの集落になっています.

 航空写真で見ると,計画的に作られてきた集落のようですが,結構古くからあることがわかります.いろいろ調べていましたらこのようなブログを発見しました.そこではこのようなことが書かれています.

 「彼の祖父(曾祖父?)が土佐からこの谷にやって来たのは、江戸時代の末期、当然布引ダムは出来ておらず、ダム工事が始まって、土佐から仲間を呼んで、その仲間が工事後、布引谷に住みついた、それがこの集落の始まりだったそうだ。しかしU本サンは、例の大水害で、両親、妻、4人の子供を亡くし、その後、後妻が来て、・・・」そしてこのU本さんとは,おそらく,毎日新聞神戸支局編の「六甲山を切る-水禍の根源にメス」という本の15頁から19頁に紹介されている梅本矢市さん(当時37歳 神戸市水道局布引貯水場勤務)のことであると推測できます.

 これを読んでわかったのは,明治の布引貯水池の工事で集まった人が住みだし,その後その関係者が知り合いを呼んできて集落ができたということでした.次の図は,国土地理院の傾斜がわかる地図です.

 赤い点線の〇が布引谷の集落です.ここから布引貯水池のダム現場まで直線で800m,しかも,貯水池の現場周辺では唯一ここだけが比較的平地が確保できる場所で,ここに宿舎や資材置き場ができたであろうことが想像できます.

 この方の別のブログではこう書かれています.「50年ほど前、現在、布引ハーブ園がある世継山に、神戸カンツリークラブと言うゴルフ場の造成が進んでいた頃、布引谷・市ケ原には20人程の子供がいた。ゴルフ場開発に伴って、我が山の家の前まで交互通行ができる巾の車道もできたが、子供達は片道4キロを歩いて通学していた。昭和38年、ゴルフ場営業に伴い、その従業員が市ケ原に住み始め、子供は10人ほど増えた。瀬戸内地方からやって来た家族が多かったそうだ。」

 すなわち昭和42年水害までは,ゴルフ場の関係者の家族も来て,子供たちも増えていたという集落の様子がわかります.その集落が,昭和42年の災害に直撃され,今はすっかり無人となってしまったのでした.

 なお,先ほど紹介した「六甲山を切る」の引用の中では,夜の9時15分ごろにその大崩壊が起きたと書かれていますが,その時の雨の降り方を示すハイエトグラフは下図のようになっていて,午後5時ころから9時ごろまで猛烈な雨が降っていました.

豪雨による土砂災害を対象としたリアルタイムハザードマップシステムの検討」から引用
応用地質技術年報No.32 2013

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