阪神大水害-2

「細雪」などで描かれた阪神大水害

 谷崎潤一郎の小説「細雪」は、何度も映画化された非常に有名な作品ですが、谷崎はこの小説の中で、実に詳しく阪神大水害の様子を描いています。大水害の日(昭和13年7月5日)に本山第二小学校に登校した悦子(主人公4姉妹の次女幸子の娘)の救出までの道々でのまちの様子や、甲南女学校(現在の本山南中学校の場所)のそばの洋裁学校で浸水した建物の屋根から四女妙子を救出する状況などを当時の状況を彷彿とさせる筆致で実に克明に4万字にわたって描いています。

 この小説に出てくる本山第二小学校については、国土交通省の「六甲砂防事務所」のホームページの「阪神大水害の被災体験談」においても興味深い手記が掲載されています。当時、小学校6年生だった手記の筆者は、水害当日、雨が上がったので学校から自宅まで一人で帰ることになりました。「小学校から現在の国道2号線まではひざ下ぐらいの水でしたが、国道2号線にでると、胸ぐらいまで水が溜まっていました。途中、アスファルトがえぐれたのか、くぼみのようになっているところもあり、頭まで水に浸かってしまう事もありました。幸い、歩いている人も多くて、何回も助けてもらいながら家にたどり着きました。国道を帰っていた時間はとても長く、また一番怖かった様に思います。(中略)住吉川の近くにあった病院の地下にあった受付ロビーには、大量の土砂が流れ込み、水が引いた後、多くの方の遺体が発見されたと聞き、とても怖く思いました。」この六甲砂防事務所のホームページには、ほかにも興味深い手記が掲載されています。

 細雪で描かれている洋裁学校の被災については,私の仮説があります.実は,当時「湊川高等女子職業学校」という裁縫などを教える学校が神戸市灘区福住通にあったのですが(この学校はもともと兵庫区にあったため校名が湊川となっています),阪神大水害で教員2名,生徒8名が殉難するという大きな被害を受けました.(湊川相野学園のあゆみ)谷崎はこの殉難を知っていて,細雪に取り入れたのではないかと推理しています.

 また、昭和42年水害のあとで発行された「六甲山を切る」(毎日新聞社神戸支局編)では、昭和13年大水害についても詳しい証言がいくつか紹介されていて、その中で、山腹の土砂が崩れるさまについて「(池になった)水をささえていた土がくずれると、ガラガラの河原になったその谷を木の根や泥やら水が、かたまりになって流れる、すると山の斜面から「ドドッ」と谷へ土が落ちるんですわ。」(青谷道を登山していた上田浅一さん談)という目撃談が掲載されています。

六甲山からの大量の土砂が市内に流出

 このときに六甲山に降った雨は、7月3日から5日までの累計で、もっとも多いところでは616ミリ、神戸測候所では462ミリ(1年間平均雨量の1/3)であり、しかも、豪雨は、六甲山全域に降ったのでした。(下図,神戸水害史から) そのため、六甲山は先ほどの目撃談のような山崩れが千数百か所で起きて、そこから下流に流れ出した土砂の量は百万立坪(約600万m3)に及んだ(神戸市水害誌に紹介された小畔四郎の推算)といわれています。そのため、山裾のまちのいたるところに大量の水とともに大量の石や土砂が流れ込んだのでした。

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