水害を繰り返してきた六甲山

 これまで,阪神大水害についていろいろ紹介しました(「阪神大水害-1」~3)ので,阪神大水害のときの状況をなんとなく想像できるようになったと思います.災害でまちがどのようになるのかを想像できるかできないかで,次の対応が大きく異なってきます.過去の大災害から学んで,災害の時のイメージを持てるということは,減災のためには非常に重要なスタートです.

 市街地に多量の水と石と土砂を吐き出した阪神大水害でしたが,表六甲の洪水は,それ以前にも,繰り返し起こってきましたし,そしてそれから後も起こっています.「六甲三十年史」(近畿建設協会)にある年表では,例えば,18世紀の100年間についてみると,実に8回もの六甲山からの洪水の記録があります.平均して12,3年に1回の頻度で洪水が発生していたのです.

 1868年に神戸港を開港してすぐに当時の生田川の右岸に隣接して外国の施設を立地させるための「居留地」ができました.生田川は,もともとは現在のフラワーロードの場所を流れていました.ところが,居留地は,開港後すぐに生田川の氾濫により洪水被害を受けました.そこで,そのような土砂災害から居留地を守るため,生田川は,開港後わずか4年で東側に「新生田川」として流路を付け替えられたのでした.

 阪神大水害から29年後の昭和42年7月9日には,台風7号くずれの低気圧が九州に居座って梅雨前線を刺激して六甲山に豪雨を降らせました.このときの雨量は,連続雨量で380mmを越え,1時間雨量では69mmと昭和13年の大水害を上回るものでした.この豪雨でも,六甲山の多くの箇所でがけ崩れが発生し,阪神大水害と同様の光景が表六甲の市街地で再現されたのでした.

六甲山の形状や地質の特徴

 このようにたびたび大水害を引き起こしている六甲山とはどのような特徴を持っているのでしょうか?その特徴は,すでにこれまでのお話の中にも何回か出てきています.その一つは,六甲山の南斜面,すなわち表六甲の斜面がきわめて急峻であるということです.

 上図は,地理院地図の陰影起伏図ですが,大阪湾に面した表六甲では,市街地までの山の斜面は,急な斜面となっていることがわかります.これと比べると裏六甲の方は,かなり緩やかであることがわかります.これは,六甲山が隆起し,大阪湾が沈下するという「六甲変動」の結果,表六甲側が隆起したためであると言われています.

 では,この六甲山を形作っている素材はなんでしょうか?

 上図は,産業技術総合研究所のシームレス地質図の六甲山の地質の図ですが,主要な地質は,凡例では深成岩となっており,「花崗岩」という岩でできています.また,この図では「断層」として太い線が引かれていますが,実際には,六甲山は,この100万年間続いてきた「六甲変動」により,何百回となく断層活動が起こってきたために,ここに描かれた以外にも,もっともっと多くの断層があります.そして,地質が「花崗岩」であるということ,花崗岩に刻み込まれた数多くの「断層」の存在,市街地背後の斜面が急勾配であることなどがあいまって,土砂災害を引き起こしやすくなっているのです.

 花崗岩は「石英」,「長石」,「雲母」の結晶が粒上に組み合わさっており,もともとは非常に堅い石ですが,マグマ冷却時の摂理(割れ目)の発生や,六甲山で発生した度重なる地震活動による断層などで,岩盤はずたずたになっています.ずたずたになった岩盤には,雨のたびに,その岩の割れ目に水や空気が入っていきます.花崗岩を構成する石英,長石,雲母の堅さは各々異なっているうえに,水や空気に反応する程度も違います.そのために,長年の間に,長石は粘土化し,雲母は水を含んでふくれ,3つの結晶はバラバラになって岩から砂に変わってしまうのです.これを「風化」といい,花崗岩が風化して砂状になってしまったものを「真砂土(まさど)」とよんでいます.

 六甲山は,一見,堅い岩盤でできた山のように見えますが,実態は,この風化した花崗岩,すなわち岩というよりは「真砂土」という土でできた山であったのです.そのため,豪雨に見舞われると,その急な斜面はがけ崩れを起こしやすく,その崩れた土砂が,大量の水とともにその下の扇状地にある市街地を「土石流」となって襲うということが繰り返されるのでした.

→ 六甲山での土砂災害対策の歴史

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