六甲山の斜面をどう守るのか

阪神・淡路大震災の爪痕

三宮から六甲山を見てみると,神戸布引ロープウエイの東隣に斜面が大きく崩れたところが目につきます.ここは苧川(おがわ)谷という谷の上部の斜面です.実は,ここは,阪神・淡路大震災のときの地震で崩れた斜面の一つです.20年前の大地震で六甲山では770か所もの斜面崩壊が発生しました.そのため,緊急工事や復旧工事が行われました.この斜面の工事は,いろいろと難しい対応が必要であったため今現在も復旧工事中です.

平成27年2月 太田撮影

山の斜面を守る

豪雨による土砂災害を防ぐために,その土砂が供給されてくる「もと」を断つという意味では,まず,斜面が崩れないようにすることが重要です.しかし,繰り返しお話ししているように,表六甲の斜面は急こう配で,一筋縄では行きません.はげ山同然であった六甲山の砂防工事は,明治25年の大水害の後,明治28年に逆瀬川上流で兵庫県が行った緑化を目的とする山腹工事と堰堤工事に着手したのが最初とされています.

その後,六甲山の山腹への植栽については,明治35年から,本格的な工事が行われてきました.この植栽工事は,布引貯水池へ土砂が流れ込まないようにするために,堰堤を築造するとともに,水源地を土砂から守るために行われたものです.このときに植えられたのは松と山榿(やまはんのき)が7万本ずつでした.山榿というのは学名をヒメヤシャブシといい,同じころ,滋賀県で,山肌を保護するための植林用として無償で配布されたという記録もあります(滋賀県県政資料室展示資料).当時,山榿は,禿げ山を緑の山に変えるのに最も効果的と考えられた樹種の一つでした.この木は乾燥地に強く,生育も早く株根が拡張するので,土砂が流れるのを防ぐ効果が大きいとされていて,「ハゲシバリ」という別名を持っています.また,山榿の樹間に松を植えれば松の生長も促進するといわれていました.このような当時の知見にもとづいて松とほぼ半分ずつ植栽されたものと考えられます.ただ,山榿が植えられたのはこの時期だけで,それ以降はまったく植えられていません.その後は六甲山として独自の樹種を採用していったと考えられます.写真は,明治35年に塩ケ原一帯で行われた植林1年目の写真と5年目の写真です. 5年目では,まだ,山の地肌が見えていますが,それでも,かなりこんもりとした様子になってきており,もはやはげ山とは言えません.

このようにして明治の後半から精力的に行われてきた六甲山の植栽ですが,阪神大水害では,斜面の下にある市街地を守ることはできませんでした.明治期の六甲山での植栽は,約4百万本にのぼりました.阪神大水害時には,かなりの樹木が山肌に生育していたのです.以前紹介した図や写真のような明治初頭のはげ山の六甲山であったなら,阪神大水害の被害はさらに甚大であったと考えられます.

このように,山腹の植栽を進めてきた六甲山ですが,大水害時点での六甲山の緑化は,まだまだ不十分であったという反省から,神戸市の水害復興の会議において,山腹の植栽の強化の計画が策定されました.神戸市の復興委員会では,京都帝国大学の村上恵二教授が,「山腹工事として植栽を中心として,土木工法を加味して行う」という復興計画の説明をしています.また,明治の砂防や植栽を指導してきた本多静六博士は,すでに73歳になっていましたが,神戸に来て講演し,36年前から神戸の砂防にかかわってきた者として「専門家は,少なくとも山津波が起こっても今回のような大惨害を起こさずに済む方法を講じておくべきでありました.(中略)再び斯る過誤を繰り返さざるようしなければならないと深く自覚する次第」と痛恨の思いを述べたのでした.そして,大水害の原因を考察し,六甲山の防災への対策として「第1:背山一帯の無立木に造林すること.第2:渓谷並びに急峻地には石張りをなし,かつ多数の石堰堤を築いて以て渓谷の深まるを防ぐこと.第3:山上の平坦地にもなるべく新たなる開墾を禁じて樹林地となすこと.・・」等の提言を行っています.これは,大水害からの復興において重要な意義を持つものでした.

リテラシーの部屋