東松島の野蒜ヶ丘でお話を聞きました

 2019年11月の神戸市防災技術者の会の東日本大震災被災地視察において,野蒜の高台移転された自治会役員さん方にお話をお聞きすることができました.


大震災前後のまちを見比べる

 ここは,東日本大震災の大津波で大きな被害を受けたまちです.この地区を通るJR仙石線も野蒜~東名駅間で大津波に飲み込まれました.この時に野蒜駅を通過してすぐの車両の危機一髪の物語は,NHKでも放送されましたが,東北運輸局がまとめた「よみがえれ!みちのくの鉄道」のコラム(「第2編第2章 東日本(在来線)」P.135-137)においても詳しく描写されています.

 Google Earthから震災前(2004年7月)と2019年3月の状況をまったく同じ場所で切り取って二つ並べてみましょう.

 

 もともと仙石線の走っていたところよりも北の丘陵地に新しいまちが作られたことがわかります.上の図の右下の赤い丸が,元のJR線仙石線野蒜駅で今は東松島市震災復興伝承館となっています.ここでは,語り部さんから直接,当時の状況をお聞きすることができます.


住民がわずか2か月でまちとJRの高台移転を要望

 2019年11月24日に神戸防災技術者の会のメンバー15人がこの新しいまち(野蒜ヶ丘1丁目,2丁目,3丁目)の自治会の役員さん方(会長,副会長,事務局長)のお話をお聞きしました.次の写真は,ちょうど3年前の11月で,このときに一番手前の1丁目もやっと完成したのでした.(URホームページ「復興の「今」を見に来て!第9回 Part1」から)

 上の写真から3年経過した現在の野蒜ヶ丘は,すでに多くの家が立ち並び,空き地も少なくなってきています.

 この機会に,私は,以前から疑問に思っていた点についてお聞きしました.実は,この高台移転は,野蒜~東名間のJR仙石線も一緒に引っ越すというほとんど他に例がないスケールの大きな計画を非常に早い段階で復興計画に盛り込んだわけですが,その早さについて,いったいどういうことだったのかとの思いがあったからです.そして,その問いに対する地元の方々の答えには本当にびっくりしました.なんと震災からわずか2か月後の5月11日に,全区長さんが連名で高台へのまち全体の移転を市長に対して申し出ていたのでした.まだ,まちが混乱を極めていたであろうこの時期に,区長さんが揃ってそのような要望を出せたということで,市もJR側との協議をまとめ上げる力になったものとおもいます.そして,「2か月後」という時期は,阪神大震災後の神戸では,ちょうど復興都市計画の都市計画決定が混乱の中行われた時期でもあり,そのあまりの対照的なできごとに,ほんとうにおどろきました.

       高台の野蒜ヶ丘の自治会幹部さんたちとの懇談(2019年11月24日)

 このような住民の積極的な動きを生み出したものの背景として,震災で大きな被害を受けたことはもちろんあるとは思いますが,もう一つ,官邸の市長インタビュー記事で,阿部市長さん(当時)や高橋宗也復興政策班長さん(現県会議員)がお話されているように,その前年までの公民館のあり方などへの市民協働の取り組みがあったように思います.1年で400回を超えるような住民との会議を経て,住民も行政もともに市民協働の力が培われていったのではないでしょうか.そのような取り組み姿勢は,今日この場に市役所のお声掛けで3つの自治会の幹部の方々が来ていただけたように,連綿と現在も続いていると感じました.

 → 津波から企業の大事なものを守って復興ー気仙沼「斉吉商店」のお話し

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