布引ハーブ園災害の歴史2
42年災害で被災した麓の集落
前回(「布引ハーブ園の災害の歴史1」)お話ししたように42年災害では世継山の斜面が幅40m,長さ140mにわたって崩壊しふもとの集落が大きな被害を受けました.
その麓の集落では21人が犠牲になりました.しかし,この山深い場所にある市ケ原の集落はどのようにしてできたのでしょうか?次の写真は前回も示した集落の被災前の航空写真(1961年)です.
今昔マップというサイトでは昔の地図と現在の地図を並べて比較できます.明治43年では民家はあるようですが,集落と言えるほどではありません.
ところが大正12年にはかなりの集落になっています.
航空写真で見ると,計画的に作られてきた集落のようですが,結構古くからあることがわかります.いろいろ調べていましたらこのようなブログを発見しました.そこではこのようなことが書かれています.
「彼の祖父(曾祖父?)が土佐からこの谷にやって来たのは、江戸時代の末期、当然布引ダムは出来ておらず、ダム工事が始まって、土佐から仲間を呼んで、その仲間が工事後、布引谷に住みついた、それがこの集落の始まりだったそうだ。しかしU本サンは、例の大水害で、両親、妻、4人の子供を亡くし、その後、後妻が来て、・・・」そしてこのU本さんとは,おそらく,毎日新聞神戸支局編の「六甲山を切る-水禍の根源にメス」という本の15頁から19頁に紹介されている梅本矢市さん(当時37歳 神戸市水道局布引貯水場勤務)のことであると推測できます.
これを読んでわかったのは,明治の布引貯水池の工事で集まった人が住みだし,その後その関係者が知り合いを呼んできて集落ができたということでした.次の図は,国土地理院の傾斜がわかる地図です.
赤い点線の〇が布引谷の集落です.ここから布引貯水池のダム現場まで直線で800m,しかも,貯水池の現場周辺では唯一ここだけが比較的平地が確保できる場所で,ここに宿舎や資材置き場ができたであろうことが想像できます.
この方の別のブログではこう書かれています.「50年ほど前、現在、布引ハーブ園がある世継山に、神戸カンツリークラブと言うゴルフ場の造成が進んでいた頃、布引谷・市ケ原には20人程の子供がいた。ゴルフ場開発に伴って、我が山の家の前まで交互通行ができる巾の車道もできたが、子供達は片道4キロを歩いて通学していた。昭和38年、ゴルフ場営業に伴い、その従業員が市ケ原に住み始め、子供は10人ほど増えた。瀬戸内地方からやって来た家族が多かったそうだ。」
すなわち昭和42年水害までは,ゴルフ場の関係者の家族も来て,子供たちも増えていたという集落の様子がわかります.その集落が,昭和42年の災害に直撃され,今はすっかり無人となってしまったのでした.
2019年2月2日の「布引公園の災害史を歩く」は,この集落跡も訪問する予定です.
話では聞いていた災害ですが、太田さんが探し出してくださった関係者の記録を読むと、改めて災害の恐ろしさを認識しました。これに備えるとともに、後世に伝えていくのは、行政に携わったものの使命と改めて痛感しました。ありがとうございました。
ありがとうございます.このような災害にあった人のお話しというのも,しっかりとこころに刻んで,伝えていきたいですね.
当時ゴルフ場の開発をしてたんだよね。そのゴルフ場の斜面が崩落して直下の桜茶屋に土砂が押し寄せて避難していたいた市が原地区の住人の多くが亡くなった。妹の友達のYさんの様に自宅に留まった方にも被害は有ったようです。
当時今は亡き友と桜茶屋の前を通って麻耶山へ日曜毎に登っていました。帰りには必ず桜茶屋に寄って一服、亡き友のお気に入りのお姉さんが居たからでした。しかし彼女もあの事件で亡くなってしまいました。
しかし後から冷静に考えるとあの茶屋は避難場所としては最悪だったとしか思えません。
私自身海運業に身を置いていた関係で生死の境を彷徨った経験も有りますが、誰も助けてくれませんでした。
結局全ては自己責任であると痛感しました。
すみません.コメントいただいたのに気付いたのが今でした.