平成30年西日本豪雨での篠原台の災害-5

土石流発生のもととなった斜面崩壊場所の謎

篠原台での土石流のもとは,その上部の斜面です.そして,ここは,調べてみると実に不思議な場所であったことがわかってきました.

土砂発生源の航空写真です.(六甲砂防:平成30年7月豪雨の概要・対応状況第一報 7月17日 16時時点)うっそうとした森の斜面が崩壊したように見えます.大きさは30m×40mくらいでけっこう大きいです.

しかし,別の報告書(神戸で発生した土石流、土砂流出の状況 笠原拓造(国際航業(株)))ではこのような状況であることがわかります. 土石流を発生させた斜面崩壊の場所は,まったくの山の中ではなさそうです.その答えが1948年の航空写真で明らかになりました.当時,米軍が撮影した航空写真です.地理院のサイトで見ることができます.(「地図で防災 1」参照)

今回の斜面崩壊場所は,昔の伯母野山住宅街の開発地の一番はずれであったことがわかります.

いろいろ調べていると伯母野山住宅街は,開発当初に,神戸又新日報が昭和7年8月に行った「神戸八景」というコンテストで住宅街として1位に選ばれた場所であったことがわかりました.現地にはそれを記念した碑が立っています.碑の裏には昭和4年開墾とありました.この場所に住宅地が開発された理由の一つとして,当時の住宅開発のブームとして,「阪神間モダニズム」というものがあったと考えられます.(「補論 阪神間モダニズムと住宅地開発」

地理院地図の等高線を着色する機能で崩壊場所と篠原台を表わしてみました.もともと住宅地であったことがよくわかります.楕円マークが崩壊場所です.

地理院地図の「傾斜量図」という機能で見ると,伯母野山の宅地造成場所が段々畑のようになっていることがはっきりとわかります.

なぜ段々畑のようになるかというと,山の中の造成地では容易に土砂を排出できないために,切土量と盛土量をイコールにしなければならないからです.

 このような場所から出た土砂が,篠原台を襲いました.通常,土石流が発生したら流れの先頭に巨石が走り出してくることで大きな被害がでるのが一般的ですが,この篠原台の災害では下図のように真砂土がほとんどで,巨石はありませんでした.その理由は,流れてくる土砂の供給源となった崩れた場所が,自然の斜面ではなく,上記のように,斜面を切り開いた土砂で谷を埋めた部分が崩れた可能性を示しているのでした.

 伯母野山の崩壊箇所についての所見

以上から,今回の土石流のもとになった伯母野山の斜面崩壊場所についてまとめてみると以下のように言えます.

1.この地域は、完全な山林というよりは、むかしから、なんらかの利用がなされていたことが18世紀中ごろの絵図でもわかる.

2.標高の違いを着色でわかりやすくした図でも、土砂崩れ発生個所は勾配が緩くなっている場所の始まり(急な斜面が終わったところ)であることがわかる.

3.地理院の土地条件図では、崩壊した場所付近は「人工地形・切土地」となっている.

4.伯母野山は昭和4年から「伯母野山住宅地」として開発され、崩壊地はその開発地の北の東端の斜面部であった. この開発地は、昭和23年の航空写真でははっきりと造成区画の形が見える状態であったが、北半分の山よりの部分はその後、放棄された状態になり、発災時点では、航空写真では森のように見えている.その森の部分は、平に成形された地面の中に大木が成長している

以上から、今回の災害のもととなった斜面崩壊は、もともと人の手がいくらか加えられた場所が昭和初期に住宅地として開発され、その後一部が放置され、今回の大雨で、造成地の端の谷に埋めた土砂で形成された斜面が崩壊し、その土砂が篠原台に流れ下ったものと考えます.

なお,伯母野山の住宅地開発については当時の阪神間モダニズムが大いに影響していると考えられますがこれについては今回はふれません.

恒久対策の実施

最後に,このような災害が起きた地元でもっとも切実な声は,これからは大丈夫なのかということでした.説明会でも,住民の多くがそのことを気にかけていました.そのような心配に対して,非常に短期間で国が恒久的な対策をすることを決めました.ここは,土地の持ち主もはっきりしないような民間の所有地ですが,そのような難しい場所での直轄工事による恒久対策を素早く決めたことは地元の方々の不安にこたえる大きな決断であったとおもいます.

→ 平成30年西日本豪雨での篠原台の災害-1

→ 平成30年西日本豪雨での篠原台の災害-2

→ 平成30年西日本豪雨での篠原台の災害-3

→ 平成30年西日本豪雨での篠原台の災害-4

→ 篠原台研究補論:阪神間モダニズムと住宅地開発

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